Miholly Times

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フランス王国の始まり カペー王朝史の紹介

こんにちは、みほーりーです。

 

最近、歴史に興味がわいてきている今日この頃ですが、幼少期に欧州に住んでいたこともあり、欧州の歴史も好きで、塩野七生著の歴史小説を色々と読んできました。そうした中で欧州の大きな歴史の流れの中でポッカリと、みほーりーも理解の中で空白の期間があることに気づいたんです。

 

欧州史の有名な歴史シーンを時系列に並べてみるとこんな感じになると思います↓

 

  1.  ~395年   古代ギリシア・ローマ
  2.  ???
  3.  11世紀末~  十字軍 
  4.  14世紀~   ルネサンス
  5.  15世紀半ば~ 大航海時代
  6.  16世紀~   宗教改革
  7.  18世紀末   フランス革命

 

「あれ?古代ローマの後、いきなり十字軍?」

 

というふうに、よくよく気づいたらフランスやイギリスとか、現代の欧州の原型となる国家がいつの間にかできていることが不思議になりました。

そういえば、太陽王ルイ14世がすごかったとかいうけども、そもそも、、

 

「え、ルイって14人もいたの?」

 

と、素直に疑問に感じて、この空白の期間のことが知りたくなってきました!

 

というわけで、まず欧州の大国フランスがどのように設立されて、発展したの知りたくなって、気になっていた本を読むことにしました。

 

カペー朝 フランス王朝史1 (佐藤健一著)

 

 

 

今も世界中の人々から愛されるフランスがどのように成り立ったのか、一緒に見ていきましょう(^^♪

 

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フランク王国からフランス王国設立まで

 

欧州の大陸部は古代の時代はガリア人と呼ばれる民族が暮らしていました。国という概念を持たずにいました。やがて、ローマ帝国の進出により属州となります。ローマ帝国が崩壊すると、現在のフランスとドイツにまたがる地域のフランク人と呼ばれる民族が独自の国、フランク王国を設立します(481年)。

 

後にフランク王が崩御することにより、西ヨーロッパ全域を治めていた領土が西フランク王国、中央フランク王国東フランク王国に分裂します。

 

このうち、カロリング朝のシャルルが、後のフランスの原型となる、西フランク王国を統治することになります。

  

ロベール家の台頭

 

西フランク王国の王朝は数代続くことになりますが、かならずしも王家が実力を存分に発揮できたわけではありません。その傘下の有力家系が王の統治を支えることになりますが、その中でも、ロベール家が数々の功績を残し存在感を高め、名家として台頭してきます。

 

例えば、ノルマンディーやバイキング達の度重なる侵攻を防ぎ、特にロベール家のパリ伯ウードによるシテ島での籠城戦での勝利が有名です。このような実績に裏付けられ、ロベール家は実質の王としての影響力を持ち始めてきます。

  

やがて、カロリング朝の最後の王ルイ5世の摂政として、ロベール家のユーグカペーが任されます。そして、ルイ5世は跡継ぎを残さないまま急死。ランス大司祭は世襲ではなく、選挙で選ぶ事と決めることとなり、その結果、ユーグカペーが王に選ばれることになりました。

 

987年に戴冠式が行われ、フランク王国からついにフランス王国として、カペー王朝が始まります。

 

カペー朝は直系としてなんと300年あまり、その後、傍系のヴァロワ王朝、ブルボン王朝と続き、1792年にフランス革命によって王朝が倒されるまでの実に約800年間、フランス王政が続くことになります。

 

フランス統一までのサクセスストーリー

 

カペー王朝は15代の王が続くことになりますが、初めから今のイメージするフランスのような大国だったわけではありません。

 

当時は封建制度であり、形の上は臣下(諸侯)は主君である王国から土地を与えられ統治するとともに、主君に忠誠を誓い仕えます。ただし、実際には地方のフランク王国が崩壊してからは、王国への求心力は著しく低下しており、当初フランス王領はパリ周辺とオルレアンの土地くらいでした。

 

その他の大部分は有力諸侯が治めており、それぞれの実力は王領に肩を並べるほど。各諸侯は自分たちの領土や地位を拡大させようと虎視眈々と狙っており、日本のでいう室町時代の有力大名による戦国時代のような状況でした。

 

ユーグ・カペーから始まる王朝は、代を重ねながら、武力のみならず、さまざまは領土交渉、婚姻/相続戦略を通じて、徐々に領土と王朝の影響力を拡大させていきます。

 

言ってみればカペー王朝の歴史は、フランスが弱小国から欧州を代表する大国へのし上がるためのサクセスストーリーです。

 

カペー王朝の系譜

 

カペー王朝の歴代の王を並べてみると、このように15代の名前が並びます。

 

  1. ユーグ・カペー   (986 - 997)
  2. ロペール2世       (996-1031)
  3. アンリ1世      (1031 - 1060)
  4. フィリップ1世    (1060 - 1108)
  5. ルイ6世       (1108 - 1137)
  6. ルイ7世       (1137 - 1180)
  7. フィリップ2世    (1180 - 1223)
  8. ルイ8世       (1223 - 1226)
  9. ルイ9世           (1226 - 1270)
  10. フィリップ3世            (1270 -1285)
  11. フィリップ4世            (1285 - 1314)
  12. ルイ10世                   (1314 - 1316)
  13. ジャン1世                   (1316) 
  14. フィリップ5世            (1316 - 22)
  15. シャルル4世                (1322 - 1328)

 

たくさん、いますよね。。笑

 

本書では各王についての詳細なエピソードが記載されていますが、カペー王朝下で特にフィリップ2世/ルイ9世/フィリップ4世統治下において、大きく領土を拡大することになります。

 

もちろん、順風満帆に進んだわけではなく、多くの試練を乗り越えた末の、フランス王国強大化です。

 

試練の中には、戦争や交渉などの駆け引きもありますが、時に男女の関係と婚姻が当時の勢力図に多大な影響を与えました。

 

そのうちのとても興味深かったエピソードを紹介します。

 

 ある王妃に起因するイングランド王国との因縁の争いの始まり

 

ルイ7世に嫁いだ王妃アリエノール

 

徐々に領土を平定させていくフランスの新国王ルイ7世に嫁いだのが、南仏の広大な領土を治めるアキテーヌ公の娘でさらに相続人でもあり、アリエノール・ダキテーヌ。

 

この結婚によってフランスは悲願だった国領は飛躍的に拡大することになりますが、問題はルイ7世とアリエノールの不仲。南国の垢ぬけた宮廷文化で相続人として育ったアリエノールと、修道院育ちの生真面目なルイ7世とではすれ違いも多かったようです。

 

1147年に十字軍遠征に夫婦で参加をしますが、この時アリエノールは伯父で、中近東のアンティオキア公レーモンと情を通じた仲であったとされ、ルイ7世に対し、レーモンと戦線を共にすること要望します。

ただ、これにルイ7世は却下し、結果的にレーモンは戦死することになります。この時に両者の関係は完全に冷え切っており、1152年にルイ7世はアリエノールとの離縁を決断します。

 

イギリス王国を巻き込んだ逆襲

 

ルイ7世と離婚し、アキテーヌへと戻ったアリエノールですが、実は水面下で次の一手を打っていました。

 

当時、フランス王国の半分の国土を占めるノルマンディーとブルターニュを統治するプランタジネット朝のアンジュー伯が、イングランド王位を継承者としての権利を持っていました。

 

離婚から数か月もしないうち、アリエノールはアンジュー伯アンリと再婚します。

やがて、アンリは1154年にイングランド王位を継承しヘンリー2世となり、アリエノールはイングランド王妃となります。ヘンリー2世はイングランドのみならず、元から保有していたフランス領、そしてアリエノールから受け継がれたアキテーヌを帝国として支配します。

 

この時にヘンリー2世はフランス国王の臣下でありながらイングランド王としてフランス国王と肩を並べたことになり、またフランス国内の多くの地域もイングランド王が支配しているという複雑な状態です。

 

アリエノールはその後イングランド王国での大きな影響力を持ち続け、次代、そしたカペー王朝以降に渡りフランス国王にとってイギリス王国は、大きな脅威となり続けます。

 

中世の王政の時代では、いかに婚姻戦略を考えていくかかが重要ですが、それでも男女の関係であり、一筋縄にはいかないというところが、興味深いですよね!

 

子孫を絶やさず王朝を存続させ、国家を形成していく

 

様々な困難に立ち向かいつつも、王国を300年もの間存続させられた、一大要因は、(特に男系の)子孫を確実に残すことができたこと。仮に跡継ぎが居ないとのると、西フランク王国カロリング朝で見られたように、王朝の正統性が失われ一気に崩れて去ってしまいます。

 

カペー朝の優れていたところは、ほとんどの王が生前に男系の王太子を授かり、また家督を継ぎ次期王の戴冠式を見届けたということです。

 

また、同じ王朝が存続することで、弱小の王領から、大国に発展するための、組織・制度上の進化も進めていきました。例えば、王が直接すべてを統治する体制から王の機能の分化、国王代官による地域別の統轄や、三部会による聖職者/貴族/平民総意による、意思決定の場を設けるなどです。

 

これによって、恒久的に王朝が存続する仕組みも作り上げました。

 

ただ、カペー王朝も永続的に続くわけでありません。やがて後継ぎが途絶え、傍系のヴァロワ王朝へ王朝は引き継がれることとなります。

 

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 まとめ

 

欧州のフランスが世界史のどのような位置づけのなかで、いかに大国にまで発展してきたかのきっかけとなった、カペー王朝についてまとめてきました。

 

佐藤健一さんの著書には、カペー朝のそれぞれの王についての興味深いエピソードが、たくさん詰まっており、フランス発展は決して順風満帆ではなく、殺伐とした戦国時代の最中、時には負けることはありつつも、代を重ねて困難を克服してきたことがよくわかります。

 

これはさながら日本の戦国時代で、場所は違えど、国家統一への道筋は似通っているところがあるんだなと感じました。

 

ただ、まだカペー王朝が終わっただけで、歴史はこの後、ヴァロワ朝ブルボン朝へと進んでいきますので、これを楽しく読み進めていきたいと思います。

(また、ブログに続きの物語をアップできたらいいなぁ!)

 

ちなみに、みほーりーが一番読みたいのは、佐藤健一著の新作「ナポレオン」ですが、まずはフランスの王朝のことを学んだあとの楽しみに取っておくことにします!

 

 

 それでは、また(^^)/