Miholly Times

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ナポレオンが盗んだ美術品の傑作とルーブル美術館の話

こんにちは、みほーりーです。

 

19世紀初頭フランス皇帝を務めたナポレオン・ボナパルト。欧州の大半を支配下に置いたナポレオンとして知らない人はいない偉人ですが、世界の美術品事情に大きな影響を与えたことはご存じでしょうか?

  

今回は、たまたま読んだ面白いNew York TImes の記事を参考にしながら、ナポレオンが諸外国から盗んだ美術品にまつわる話を紹介させていただきます。西洋美術品や歴史に興味がある方のちょっとした雑談として読んでいただければ、嬉しいです(^^♪

 

www.nytimes.com

 

 

ナポレオンが盗んだ美術品の数々

 

ナポレオンは1796年、アルプスを越えてイタリアへ侵攻。イタリア全土を支配下に治めた際、ナポレオンは各地の美術品を押収するように命じます。例えば、バチカンからギリシア彫刻の傑作である『ラオコーン像』や、ヴェネチアからはヴェネチア派絵画の『カナの婚礼』も強奪されました。

 

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『カナの婚礼』  パオロ・ヴェロネーゼ作、1563年

 

こうした押収の目的は人類が手掛けた逸品を、独裁者のもとから解放してパリに集結させるため。ナポレオンの遠征によって後のルーブル美術館が一杯になるほどの美術品が集められました。

 

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『イタリアの遺物の押収』ジョージ・クルックシャンク作、1815年

 

フランスでは過去にもフランス王が権威性を高めるために建築や美術を活用してきたことにナポレオンは理解しており、それに倣って自分の政治の影響力強化に利用しようとしたようです。確かに、ナポレオンのイメージはあの馬に乗って山を駆ける絵画を思い描きますが、強くて行動力の王という印象を持ちますよね!

 

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『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』ジャック=ルイ・ダヴィッド作、1801年

 

知識の探検家とのしてのイメージ戦略

 

ナポレオンは革命後の混迷の最中にあったフランスの威厳を復活させるため、自身を戦いの勝者としてだけではなく、世界の知識の探検家としてのイメージを作り上げていきました。それも美術品だけでなく、植物や動物まで含めて。

 

1798年7月には、イタリアから押収した美術品を中心に、パリ市内でパレードが行われました。その時の目玉展示はベネチアのサンマルコ寺院の中央扉上部に置かれていた4頭の馬の銅像 (これはベネチア共和国が元々1204年の第4次十字軍遠征時にコンスタンチノープルから強奪したもの)。その他にも、檻に入れられたライオンやラクダ等珍しい動植物もパレードに加わりました。当時の様子を描いた絵にもライオンや4頭の馬の銅像が描かれています。とても興味深い資料ですね。

 

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https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Fete_monument_volees_napoleon.jpg

 

当時のパリ市民がこれの圧巻なパレードを見た時に、世界を手中に収めようとするナポレオンとフランスに対して自信を深めたのではないでしょうか。また、パレード企画時のスローガンもフランスの勝利を軍事面・文化面での勝利を決定づけるような強気の言葉となっていました。

 

”La Grèce les ceda; Rome les a perdus; leur sort changea deux fois, il ne changera plus”

ギリシアは堕ちた、ローマは敗北、彼らの運命は二度変わり、もう変わることは無い)

  

世界の美術品の宝庫として発展したルーブル美術館

 

フランス革命後、美術品もそれまでの国王の私有財産から国有財産になりました。ルーブル美術館は、それら美術品を民衆に見せる美術館にとして開館しました。開館当初は美術品が積み上げられてだけで、特に分類もできていない状態だったようです。

 

ところが、ナポレオンによる海外遠征が始まってから大量の美術品が送られることになります。美術館の整備も一気に進み、現代の私たちが知るような多種多様なコレクションで溢れたルーブル美術館の原型が作り上げられていきました。この時に掲げられた「あらゆる科学、芸術が集めらた場所」として発展というミッションは今でも続いています。1803年からは、一時期ナポレオン美術館と改名をされたようです。

 

この時期に確立したルーブル美術館の存在は、後に欧州各地での美術館の設立に大きく影響したようです。特に、ナポレオンの敗北に始まる戦後賠償による美術品の返還をきっかけに、ローマのバチカン美術館やマドリッドプラド美術館ができていきました。

 

美術品が返還される流れ

 

ナポレオンが1815年のワーテルローの戦いに敗れてからは、欧州各国はフランスに強奪された美術品の返却を求めました。結果、美術品の内の半数は返却されたようです。その時の様子はある画家から言わせると、「ホコリにまみれ、台車に載せられた美術品があたり一面を広がっており、嘆かわしいほど」だったようです。

 

ただ、イタリアのカナの婚礼を含めて、盗まれた美術品の半数はフランスに残ることになりました。多くの美術品はフランス各地自治体の様々な施設に分散して保管させることで、返還の手続きを複雑困難にさせたため、容易に返還合意させないようにしていたようです。今でも、この時に残った多くの美術品をフランスが保有しています。

 

この美術品の返還をめぐる交渉やそのプロセスは、世界でも初めて行われた文化財産の返還であって、当時の新聞や有識者を賑わせたそうです。これがひな形にもなって、後々のフランスが植民地化したアフリカの国の文化物の返還も行われました。

 

それでも多くの美術品が戻らなかったことは事実で、イタリアでは” i furti napoleonici (ナポレオンによる強奪)”という言葉が使われながら、今でもこの件では微妙な関係が続いているようです。

 

後世のナポレオンの評価は?

 

私たちがナポレオンと聞いて思い描くのは、フランスを欧州の常勝国として発展させた英雄というイメージでですよね。決して諸外国の美術品・文化物の略奪者という感じではないです。ただ、フランスを含む欧州列強がアフリカの植民地で行った文化物の押収には、さまざまは批判があり、その返還もよく話題になっています。ナポレオンとその後帝国主義になってからのアフリカでの植民地での押収でどうして違いがあるんでしょう。

 

これに対して、記事の中でのフランスの歴史家Bénédicte Savoy氏の言葉を引用します。

 

「欧米列強の植民地政策時とナポレオンの大きな違いは「その期間」。アフリカ植民地政策は1世紀以上も続いて、その間多くの天然資源や文化物を押収し続けた。それに比べたら、ナポレオンは...そこまで激しくなかった。」

 

確かに、現代から振り返えると、歴史上の人物で記憶されるのは一番顕著な影響を与えた出来事であって、それ以外のことは意識的に勉強しない限りはしることは無いですよね。

 

ナポレオンの美術品強奪は褒められたものではないけど、それが今の美術品への評価や質の良いコレクションを収集・展示する美術館の発展に貢献したと思いたいですよね!

 

まとめ

 

ナポレオン・美術品強奪・ルーブル美術館…といって目を引くキーワードで読み始めた記事。そこから、どんどん興味が出て調べていくとナポレオンが欧州の美術品や美術館の発展にすごい影響を与えたことを改めて知ることになりました! 

 

テレビもネットもない時代、国民へのイメージ戦略としてナポレオンが自分の勇ましい絵画を多く描かせたということは知っていましたが、美術品の押収やルーブル美術館を通じて世界の知識をフランスを集結させるところまで実行させていたのですね。もし、今度ルーブル美術館を訪れる機会ができた時はまた違った視点で観ることができるような気がします。「ナポレオンが奪ったのはどの絵画だろう。。」とか(笑)。

 

最後に、パリのコンコルド広場に建っているオベリスクの塔。みほーりーは、これはナポレオンがエジプト遠征から戦利品として奪ってきたもの、とずっと思っていました。

 

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パリ コンコルド広場のオベリスク

 

ただ、それは違うようです!調べてみると、これは1836年にエジプトのムハンマド・アリー朝エジプト国王 ムハンマド・アリーから贈られたものだそうです。なんでも思い込みは良くないな~と実感しました(笑)

 

それでは、また(^^)/