こんにちは、みほーりーです!
グローバル化がどんどん進んで、海外の人と普段から接することが当たり前の環境は、今後ますます身近になっていきそうですよね。
そんな中、最近は世界でも多様性や差別についての議論が大きく注目されています。日本で暮らしていると、あまり海外のニュースで見るような状況に身をおくことは、そこまであるわけではないかもしれません。でも、それでいいのかなと漠然と考えることがありませんか。
今回、そんな状況を垣間見ながら、ふと話題の本、ブレイディーみかこ著の「僕はイエローでホワイトでちょっとブルー」を読んでみました。
本書の主人公である筆者の息子は、イギリスの住んでいるアイルランド人とのハーフの男の子。イギリスのブライトン市にあるカトリック系の小学公を卒業した後、カトリック系の中学校ではなく、元底辺中学校へ進学し、多様性と差別に向き合っていくストーリーです。
息子が日常の中で対峙する葛藤はどれも大人の我々でもうーーんと、唸ってしまうことばかりで、自分が同じ現場に居たらどんなことを、息子にいえるだろうか。。など色々考えさせられます。
この記事では、本書に重要なテーマである多様性について、私が心に残ったことを3つ取り上げて紹介させていただきたいと思います。
「ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー」で述べられる多様性について
本書で語られるイギリス社会での日常は、日本では考えられないような状況は多々あると思います。私は、本作から、イギリスの社会がどうとかっていうよりも、私たちが普段の生活の中で多様性にどのように向き合っていけばということのヒントを得られた気がします。
1)エンパシーの考え方
多様性を成立させていくためには、他者に対してエンパシー(EMPATHY)というを持つことが重要。
エンパシーとは、
「自分とは違う理念や信念を持つ人々に対して、かわいそうだと思えない立場の人々も含めて、相手が何を考えているのかを想像すること」
と、本書では述べられています。
これに対して、「感情、考えや理念などへの理解を示す」意味のシンパシーは、相手に対して「可哀そう」とか「尊敬する」というような、自然と湧いてくる感情のことです。
エンパシーは相手の立場を想像するために一所懸命考えるという知的作業であって、理解を示すシンパシーとは異なるものと説明されています。根本的に自分と異なる考えを持つ他人について想像するこというのは言うのは簡単でも、実践するのは簡単なことではありません。
例えば、世界中でBLACK LIVES MATTER運動が起きている現状でも、黒人の方々について可哀そう、頑張ってほしいと思うのにとどまれば、それはシンパシーであって、その問題について本当に理解したわけではありません。
エンパシーの場合は、なぜ黒人の方々の立場のみならず、白人の警官の立場、それをもたらしてる社会のことも、よく自分でも想像をしなくてはなりませんね。これがちゃんとできなければ、さまざまな個が共存する多様性なんて生まれないですよね。
2)他人の靴を履くということ
誰かにエンパシーを示すには、相手の立場にたって、考えてみることが重要です。それは、つまり「他人の靴を履くこと」だと本書では紹介されています。
これは本当に的確な表現ですよね。確かに誰かの靴を実際に履いてみると、ちょっときつかったり/ゆるかったり、どこかがすり減っていたり、靴ひもがほどけていたり、自分とはちがうその人が歩いてきた痕跡を感じることができると思いませんか。
頭で考えていても、相手のことを想像するのには限界があります。だからこそ、実際にエンパシーを示したい相手に対して、自分から能動的にコミュニケーションをとってみたり、相手の環境に飛び込んでみることで相手の考えていることを身体で体感してみるなどが、他人の靴を履いてみることなんじゃないかなと思います。他人事でなく自分事として捉える、という事かもしれません。
私も例えば仕事で、ちょっと無茶の指示を出す上司がいた時、初めは反発を覚えたりすることもありました。一度思い切ってそうした感情は一旦置いておいて、どうしてその人がそういう指示をするのか冷静に考えてみました。
仕事の確認も兼ねてなるべく上司に声をかけてコミュニケーションをとるように心がけていくと、その上司もまた上層部からの強い指示を受けていて強い焦りがあったということがわかりました。それでつい、部下にも厳しくあたってしまう。ただ、そのことについてもを気にしているようでもありました。
そうした状況を本人から聞くことで少しでも互いの理解が進むと、同じ仕事をするにしても気持ちの面でより円滑になるなと思ったことがあります。これも身近で行ったエンパシー&他人の靴を履くこと、ではないでしょうか。
3)多様性を考えることは無知を減らすこと
本書のなかで主人公である息子が、「なぜ、多様性を考えなくてはのならないのか?」と母に訪ねます。これに対し、著者は「無知を減らすこと」と答えます。
たしかに無知であることは、自分の言うことで相手が感じる気持ちを想像することなんてできないし、そんな状況でお互いの価値観がぶつかり合えば、摩擦が起きて喧嘩にもなるかもしれませんね。
無知って、よく考えると相手に対する興味もないこと。
自分の考え方がしっかりと固まってくる大人が、これまで接したことない世界について興味をもって理解を深めようとすることはなかなか難しそうな気がしますよね。
だからこそ、多様性を育むには次(↓)のようなことも、大事になるんじゃないかと考えさせられました。
「一人の子供を育てるには、一つの村が必要」
ここまで、多様性を実現させるためのポイントを書いてきましたが、個人でやってみるだけでも大変なのに、それをもし社会でやろうなんて考えたら途方もない話ですよね。
本書では、「一人の子供を育てるには、一つの村が必要」というイギリスの言い回しが紹介されています。国の福祉が十分に行き届かないこともある中、市民が互いにボランティアで助け合い、子供に対しても親だけでなく村として見守っていくことです。
その中で子供は、身近な大人から様々な価値観や考え方を学んで、結果に成長するにつれて多様性も身につけていくのかなと思いました。これがきちんと機能している村は素晴らしいですが、きっとそれは長い時間をかけて形成されていったものなのでしょう。
大人が子供を見守っていく社会って、大げさなことばかりではなく、親が見てないところでいけないことをしたら、それをサッと周りの人が注意してくれる、またはいいことをしたらほめてくれる。そんなことでもいいと思います。
些細な事ですが、みほーりーは子供の時に赤信号で横断歩道を渡ろうとしたら、クラクションを鳴らした車がその場に停まり、運転手が車の外に出て、私に注意したことがありました。やってはいけないことと思いながらやってしまって、それをしたら周りに迷惑や危険を及ぼすと直接他人に教えられたことが、ずっと今でも記憶に残っています。
村が子供を育てるってこういうことの積み重ねなのかなと思います。みほーりーも目的意識をもって、そんな社会の一員になれるように頑張ろうと思います(^^)/
まとめ
日本にいると多様性を理解したいと思いつつも、なかなか身近でそれを考える機会はないかもしれませんね。
ただ、本書を読んで思ったのはここに紹介した多様性を受け入れるための考え方(エンパシー/他人の靴を履く/無知をなくす)は同じ日本人同士であっても、十分に実践できるということ。
ここでみほーりーが考えるのは、多様性を考えるということは、自分の知らない立場や考え方について学んで想像していくこと。それは、「自分の無知を減らすこと」でもありますが、これを前向きに表現すれば、
「自分の知らない世界を探求していくこと」
とも言えるのではないかなと思います。こういう前向きな表現だと、どこかワクワクしていきませんか(^^♪
最後に、本書を読んで多様性について考える機会になりましたが、私は幼少期に学んでいた欧州のインターナショナルスクールでも、別の視点で多様性はあったのかなと思い始めています。
これについては、また別の記事で紹介していきたなと思います!
是非、みなさんも本書を手に取ってみて、多様性について自分が思うことを探求してみませんか。
それでは、また(^^)/